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| 終わりなき品質の追求 ハサミ職人の魂は世界を跨ぐ ナビゲーター 並木孝信氏(美容フリーライター) 第12回ゲスト 井上 弘(*弊社代表取締役社長) *対談時:現会長 |
一般消費者のヘアデザインに対するニーズが多様化するのに伴って、理美容師が鋏メーカーに求める質、形体も十人十色で無限に広がっている。そういった時、最大公約数を狙うのが常套手段と言えるが、それだけでは割り切れないこだわりが、職人(メーカー)と職人(美容師)の間に浮遊している。それをいかに掴みエッセンスとして活用できるか。世界を跨ぐハサミ職人の魂は、その終わりなきテーマを追い求める。 入社後10年は鋏づくりの修業 並木 はじめまして。今日は創業者である先代の事績や、旺盛な海外進出などについてもお伺いしますが、まずは社長の履歴から。お生まれはここ(東京・文京区本郷)ですか。 井上 ええ。昭和8(1933)年12月に、医療用鋏製造の傍ら理容鋏を製造していた小さな町工場の長男として生まれました。戦時中(昭和16年からの太平洋戦争)は栃木県那須へ学童集団疎開で行き、そのあと家族みんなで新潟、長野と移住しました。当時は統制経済で材料も燃料も手に入らず、企業合同が盛んに進められていた時代でした。昭和13(1938)年には軍部の統制で「理髪鋏の製造禁止令」が発令されたり、「男子理髪師の就業禁止令」が出たり、金属類の供出が強制されたりで、鋏どころじゃなかったようですよ。 並木 小さい頃からお父さんの跡をつぐつもりでいましたか。 井上 戦後の昭和27(1952)年に長野の須坂西高校を卒業。18歳でした。すぐに父のやっている東光舎という鋏工場に就職することになっていたんですが、医者に結核だと誤診されて、入社が1ヶ月ものびちゃった。 本当は私は、直ぐに職人の世界に入るのではなく、上の学校へいきたかったんです。金属とか治金とか、そういう方面へね。しかし父は、職人になるのに高等教育はいらんと許してくれない。行きたければ勝手に行け、おれは知らんと脅されて、結局、軍門に下ってしまいました。 ですから、そのまま東光舎へ入社。そのころ父を入れて職人は数人しかいなかった。入社後10年くらい鋏づくりの職人修業をしました。 酉年のスタート 並木 それでは創業者であり、お父さんである先代の豊作社長についてお伺いします。確か大正の初めに福岡・久留米から上京し、鋏の仕事を始めたんでしたね。 井上 そうです。父は明治27(1894)年に、久留米に近い田主丸という地で出生しました。今年でちょうど生誕110年になります。久留米では祖父が米穀、薪炭、日用雑貨を商う店をやっていて、村の人からは「よろずや」と呼ばれていました。何でも扱う店というわけですね。もちろん刃物も取り揃えてありました。「よろずや」は明治では珍しく納税者だったといいますから、かなり手広く商売をしていたんでしょうね。 父は先見の明があるといいますか、青年の志やみ難くといいますか、「いまに西洋医学の時代が必ず来る。そうなれば医療器具が商売になる」と、大正2(1913)年に19歳で上京。 就職先を探し回った末に、東京・本郷で鋏とかメスとかを製造している医療器具屋に弟子入りしました。親方は前川万吉という人で、鋏づくりは達者だが、根っからの鋏職人でほとんど読み書きができない。そこで高等小学校を卒業していて、納品書なども簡単に書いてしまう父を重宝につかったらしいんですよ。 並木 それでお父さんは大正6(1917)年に修業3年で独立しましたね。 井上 ええ。23歳の時でした。当時としては早い一本立ちだったでしょう。西洋から渡来した医療用の鋏は全て「全鋼製」で、刃物としては、当時の「着鋼製」の理容鋏より優れていると考えていた父は、その信念を後のニハトリ印に活かしたといいます。 並木 理容業への進出はいつごろのことでしたか。当時はステンレス素材のものを出して、一度失敗したことがあったようですが。 井上 当時のステンレス素材のものは錆びないかわりに、そのままでは焼きが入りませんから、どうしても切れ味が鈍くなるんですね。そこで寝る間も惜しんで工夫を重ね、ステンレス鋼に滲炭処理を施す工法で、とうとう表面硬化に成功。この製品は大正平和博覧会に出品して銀牌を授与され、「鋏業界に井上あり」と認められる第一歩になりました。 東京・本郷の上富士前に小さな工場を設けたものの、大正末期は不況のどん底で、医療器具よりもはるかに需要の多い、全国の職人が1丁ずつ買っても何万丁になると皮算用を立てて、理容鋏への進出をはかりました。大正10(1921)年のことです。この年が酉年だったので、再出発の記念として「ニハトリ印」を商標にしました。今ではこのニハトリは「ジョーウェル」の商号で世界を駆けめぐっていますよ。 忍びがたきを忍び 並木 初代社長はご夫婦で行商もなさったそうですね。 井上 ええ。父からそう聞いています。浅草から上野広小路、銀座を経て新橋、品川あたりまで足を伸ばして、床屋さんに売り歩いたんですね。当時、この道筋には有名な理髪所が多くありました。浅草には松村重貴智さんの松村理容所、銀座には米倉近さんのヨネクラ、新橋には大場秀吉さんの春光館などですね。他にも日本橋には篠原定吉さんのヘイ床とか、上野広小路には小阪巳之助さんのコサカとか。 そうしているうちに、製品の良さが注目され、注文が殺到するようになったといいますよ。 並木 昭和20(1945)年に一家は、疎開先の長野で終戦を迎えましたが、お父さんは上京せず5年間、時が来るのをじっと待っていましたね。事業を再開したのは昭和25(1950)年。 井上 いい材料はとても手に入らなかったけど、鋏の形をしていれば粗悪品でも何でも、飛ぶように売れた時代でした。でも父は動かなかった。そういうものを売れば儲かるけど、それは父の信念に反するし、絶対に信用は得られないと思っていたんでしょうね。その考え方は正しいと、いまでも思っています。そんなことで逸る心をおさえて、5年間待った末、昭和25(1950)年に満を持して東京・本郷に戻り、東光舎としてニハトリ印理容鋏の製造を再開しました。 サッスーンスクールで注目の的 並木 社長が東光舎に入社したのは、その2年後の昭和27(1952)年でした。 井上 ええ。入社して10年で現場を離れ、その後、父を助けて経営に専念しました。その当時工場には、金属顕微鏡だの、ビッカース硬度計だの、最新の検査器具が揃っていました。 私の経歴を簡単にいいますと、昭和38(1963)年に個人企業から株式会社に改組したのを機会に、専務取締役に就任。昭和52(1977)年に代表取締役社長に就きました。父・豊作は昭和55(1980)年に84歳で肝硬変を患い亡くなりました。お酒を一日も欠かさず飲んでいましたからね。 並木 社長が専務の時代に海外へ積極的に目を向け、昭和52(1977)年にはEC諸国の販売網を確立する第一歩として、ロンドンに代理店を開設しましたね。当時はドイツ・ヘンケル社の“ゾーリンゲン信仰”がとても強かった。 井上 日本の理容師さんは、日本の鋏が一番いいと思っていたようですが、世界的にはやはりゾーリンゲン一辺倒の時代でした。ロンドン代理店の開設は、サッスーンスクールに入学した日本の美容師さんが持ち込んだうちの鋏を、スクールの先生がすっかり気に入って買ってくれたのがキッカケ。当初の細々とした商売も、美容師さんたちの口コミで瞬く間に世界へと広がりました。 それ以前、昭和52(1977)年にはニューヨーク・インターナショナル・ビューティショウに出展、高級品として大きな反響を呼び、同じ年にフロリダのマイアミで開かれた全米リビヨウ器具商組合(B.B.S.I.)の見本市にも出品、米国の美容師に注目されました。そんな地ならしがあって、昭和53(1978)年に米国の代理店を買収して、ロサンゼルス支店を開設し、同時にシカゴで第一回全米ディーラー会議を主催したんです。 しかし、美容師さんたちの指示を得ても、製品はなかなか流通しない。ゾーリンゲンの鋏は普通高くても5ドルくらい、うちのは超高級品として35ドル。1丁の値段を1ダースの値段と間違われるという時代でした。 父は最初は海外進出に大反対でした。なんでも一度やって代金回収に失敗し、それで懲りたようでした。それでも、うちのブランドである「ジョーウェル」という名、海外の人にも受け入れられやすかってようで、なんとか軌道に乗りました。命名は私がしました。「井上」を逆に呼んでジョーウェル。いいネーミングだといまでも自画自賛しています。 世界が認める「ジョーウェル」 並木 その後も世界への拡販拡張は続きますね。昭和54(1979)年にはオーストラリアのメルボルンに代理店を設け、翌年にはスカンジナビア3カ国の販売拠点としてスウェーデンのストックホルムに代理店を設けましたが。 井上 そうです、その年はカナダのバンクーバーに代理店を、昭和57(1982)年にはロンドンの代理店を分割してフランス、イタリー、スイス、デンマーク、ギリシャ、スペインに販売店を設置し、ヘンケル社の本拠である西独(当時)のゾーリンゲンに代理店を出しました。しかし、ヘンケル社の市場に食らいついただけでなく、ゾーリンゲン製品の輸入も大いにやりましたよ。 その後、決済が難しかったアジア地区販売網も整備。アルゼンチン、チリ、ウルグアイ3カ国との取引を開始しましたが、これは流通に問題があってあまりうまくいっていません。昭和61(1986)年にはパリ、ミラノの販売店を代理店に昇格させ、ヨーロッパ市場の販売網を確立しました。 並木 この間、米国と西独で行なわれた世界大会(ヘア・ワールド)にも出展しましたね。 井上 ええ。昭和61(1986)年の米国・ラスベガス世界大会や、2年後の西独・デュセルドルフ世界大会に出品しました。世界的な理・美容の催しには以後も、ずっと出展を続けています。「ニハトリ印」の「ジョーウェル」は、世界的な製品といっていいでしょう。これまでに製造した鋏は理・美容店合わせて、優に100万丁は超えているでしょうね。 理美容合わせて70種類 並木 事業拡張にともない20年ほど前に、岩手県に用地を買収して工場を新設しましたね。なぜ岩手県でしたか。 井上 昭和55(1980)年に、東光舎再建30周年を機に新工場建設計画を打ち出し、岩手県岩手郡岩手町の土地買収を始めました。岩手県の盛岡には家内の実家(理美容器具商)がありましたから、そんな関係で以前からの買収の網を張っていたんですよ。このため資本金も300万円から一挙に4倍の1,200万円に増資。買収した土地面積は3,747平方mに達し、翌年に新工場を施工させ、操業を開始しました。同時に板橋工場を東京工場と改称し、のち岩手工場に統合しました。 並木 現在、鋏の種類はどのくらいありますが。主な材料はなんでしょう。 井上 セニングシザーズを含め理美容合わせて70種類以上ありますね。コバルト、サイバーコバルト、ニューコバルト、コンベックス、イング、ジョーウェル、ジョーウェルクラフトなどです。 材質もステンレス系の特殊合金スーパーアロイが主流ですね。これは切れ味がよくてはもちがいいのが特色。他に薬品に強く錆びないコバルトベースアロイといった材質のものもあります。刃形状はコンベックス(はまぐり刃)、セミコンベックス、一段刃など、値段は3万円大から7万円台といったところでしょうか。5〜6万円のものがよく売れるようですね。 切れない鋏の要望も 並木 1960年代始め(昭和44〜46年ころ)にかけて、日本にサッスーンカットが上陸しましたが、東光舎さんでもミニシザーズが爆発的に売れたんでしょうね。美容師さんはミニシザーズの出現にすごい衝撃を受けました。 井上 そうですね。いくら作っても間に合わなかった。うちでもそれまでは理容鋏が圧倒的に多かったんですが。美容鋏として、まず、4インチ半(11.4p)と5インチ (12.7p)の2種類を出し、さらにもう1丁加え3丁1セットにして9,900円で売り出しました。当初はディーラーもこんな高い鋏売れませんよ、といっていましたが、作るそばからみんな売れ、そのうち出荷数は理容鋏と逆転しました。ミニシザーズを見て一番驚いたのは理容の技術者。あんな小さなものでコチョコチョ切ってないで、ぱっと一発で切っちゃえばいいじゃないかってね。 並木 いまはもう少し長いもの。自分の手のひらの大きさにもっとも合った使い勝手のいいものに落ち着いてきていますが。 井上 流行とか質にも左右され、その時々の鋏の長さというものがあるんでしょうが、今は十人十色。4.5インチから7インチ(17.8mm)くらいまで。一番使われているのが6インチ(15.2mm)前後のものでしょう。 切れ味はずっと追求してきて、最近、面白いと思ったのは、切れない鋏を望む人が一部出てきたことですよ。切れ過ぎてはダメ、少し引っかかる程度のものが欲しいというんです。スタイルとの関係なんでしょうけど、面白い現象ですね。 次世代に託す夢 並木 社長は全国理美容品工業会などいくつもの団体の長を歴任されてきましたが、これからの鋏づくりの夢はなんでしょう。 井上 新しいことは、これからの若い人たちが考えてやってくれればいいと思っています。いままでは鋏は職人の経験やカンに頼って作ってきた部分が多くありますが、これからは、それをコンピュータで制御するのが夢といえば夢ですか。原材料の質とか焼き入れ、焼く戻しの温度と時間とか、すべてを解明し数値に置き換えてね。実はこれはいま次男が研究しているんですよ。 並木 そういえば「西洋髪結」の正宗卓さんが、「いまは様々な道具がコンピュータで制御されている時代、次世代シザーズにもそれがあってもいい」と、何かに書いていました。 井上 コンピュータで制御が可能になれば、コピーを何千丁でも何万丁でもたちまちにして作れてしまう。一人ひとりの手のひらの大きさ、指の大きさ、指の太さなどのデータをインプットして、特注品を作ることも簡単に出来る。あるいははさみ自体になんらかの“頭脳”を組み込ませるとか、夢は無限に広がりますね。ただし、それでも作る側の技術者の差というものが、必ず出てきますから、コンピュータを駆使する名人が求められると思いますよ。 並木 話は就きませんが、きょうはこの辺で。ありがとうございました。 |
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